江戸時代には日本国憲法の天皇観が既にあった不思議

 大昔から続く伝統的なもの、考え方だと疑わずに信じられていることは案外多い。時代にあわせて変遷を繰り返し、意外な時代と現代が似通っていることもある。評論家の呉智英氏が、天皇観の移り変わりについて解説する。

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 少し前のことになるが、学生からこんなことを聞かれた。

「日比谷に昔は野球場があったんですね」

 ん? 日比谷に大きな公園はあるが、そこに野球場なんて…。あ、そうか、こいつは老人たちが「宮城前広場」と言っているのを聞いて「球場前広場」だと勘違いしたのだ、と気付いた。

 皇居という名称は、戦後の一九四八年改称以後のことであり、それまでは宮城と言った。戦後数年間の大規模なメーデー集会は宮城前広場で行なわれている。我々が当然のように使っている「皇居」は七十年余の歴史しかない。その「宮城」も一八八八年(明治二十一年)以後の名称だから六十年間だ。最も長期間使われた名称は奠都(てんと)以前の「江戸城」である。

 天皇家の住居の名称だけでも何度も変更されては忘れられる。

 産経新聞に「100年の森 明治神宮物語」という連載企画がある。明治神宮造営にまつわる経緯や逸話を紹介していて興味深い。一月三十日付には、こうある。

 明治四十五年七月「明治天皇の病気が公表され」「二重橋前の広場には」「大勢の人々が昼夜集まり、回復を祈った」。これについて「九州産業大の平山昇准教授は『明治時代前半なら天皇に関心がない国民も多かったが、日清・日露戦争の勝利をきっかけに〈天皇のおかげ〉という意識と尊敬心が非常に高まっていた』と話す」。

 明治三十年頃までは「天皇に関心がない国民も多かった」のだ。

 偶然にも『週刊文春』二月六日号の「出口治明の0から学ぶ『日本史』講義」も、こう語る。

「明治政府は『オレたちも世界の新しいスタンダードに乗らなあかん』と考えます。そのために使ったのは何かといえば、『天皇』でした」

「新しいスタンダード」用に、それまで「関心がない国民も多かった」天皇が浮上してきたのだ。

 幕末に来日したイギリスの外交官R・オールコックは、日本滞在記『大君の都』(岩波文庫)を残した。「大君」はタイクーン。「徳川将軍のことで、幕末に用いられた称号」(訳者まえがき)である。戦前に刊行された名国語辞典『大言海』で「大君(たいくん)」を引くと「【1】君主の尊称、【2】徳川氏の頃、外国との交際に就きて、将軍の別称としたる僣号」とある。本義では君主を意味するが、二義的に徳川時代に外交上使われた「僣号」でもある、と強調している。戦前の世相を考えれば、そうもなろう。

 岩波文庫に付載されたオールコックの小論「日本における称号」では「世俗的な皇帝(大君、タイクーン)と天皇(ミカド)は、公式の称号の面で地位が同等」で「前者は法の施行がゆだねられ」「後者はただ神からさずかったという栄誉が付与されている」とある。

 日本国憲法第七条(天皇の国事行為)と同じではないか。国事行為とは形式的・儀礼的な行為のことだ。江戸時代には日本国憲法の天皇観が既にあった?! じゃあ、明治の天皇観って何だったのか。

●くれ・ともふさ/1946年生まれ。日本マンガ学会前会長。近著に本連載をまとめた『日本衆愚社会』(小学館新書)。

※週刊ポスト2020年2月28日・3月6日号

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