「昔と今でこれだけイメージが変わる。人生って面白い」 出川哲朗とウッチャンナンチャン 同級生3人の“波乱万丈”38年間

 昨年大晦日のNHKの紅白歌合戦の終盤、 #松任谷由実 のステージで、 #出川哲朗#爆笑問題#田中裕二#ナインティナイン の岡村隆史と小柄なお笑いタレントによるユニット「スモール3」がサプライズで登場した。このとき、松任谷と一緒に歌ったあと、出川が別スタジオにいる総合司会のウッチャンナンチャン・内村光良に「チェン、出ちゃったよ!」と呼びかけると、「チェンじゃないよ!」とツッコまれていた。

 チェンとは、内村がジャッキー・チェンに似ていることから出川がつけたニックネームだ。出川はその2年前、内村が2度目の総合司会を務めた2018年の紅白にもゲスト審査員として登場。内村から「なぜだか、私が紹介するはめになってしまいました。友人の出川哲朗君です」と紹介されると、「きょうは正直、紅白の審査員より学生時代からの親友の司会のチェンの応援に来ました。チェン、頑張れよ!」と呼びかけ、「紅白でチェンはやめてください!」とこのときもツッコまれていた。

出川とウッチャンナンチャンとの出会いは…?

 このやりとりからもわかるように、出川と内村および相方の南原清隆はもともと横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)の同級生で、かつては出川が座長を務める「劇団SHA・LA・LA」で一緒に活動した仲でもある。

 そんな背景があるだけに、両者が紅白という国民的番組で対面したのは、ちょっとドラマチックであった。出川の場合、長年「抱かれたくない男」「嫌いな男」1位の常連だったのが、50歳をすぎて一転して老若男女に愛されるキャラとしてブレイクし、紅白の審査員にまで選ばれたのだから、なおさらそう感じさせる。

内村は2017年から4年連続で紅白の総合司会を務める ©文藝春秋

 きょう2月13日は、その出川の57歳の誕生日だ。奇しくも1歳下の南原も同じ日に生まれている。ちなみに内村は7月22日が誕生日で、現在56歳である。

 出川とウッチャンナンチャンの2人が出会ったのは1983年。まず仲良くなったのは出川と内村だという。出川はもともと俳優志望で、一緒に劇団をやるメンバーを見つけるために地元・横浜の専門学校の演劇科に入学した。その初日、まだ熊本から出てきたばかりだった内村と出会う。

 出川は当時を振り返り、新入生が1人ずつ自己紹介していくなか、《チェンは「毎朝『ロッキーのテーマ』をボリューム全開で聞きながら、生卵を2つ飲んで起きる」って言ってたから、「変な人だな」と思って》と明かしている(※1)。内村は少年時代に郷里の映画館で観た『ロッキー』に感動して以来、映画監督を志していた。

 やがて内村と友達になった出川は、2人で学校から帰る途中、「俺は劇団をつくりたい」と言うと、内村も「僕もそうだ」と意気投合、握手をしたという(※2)。ただし、同級生の南原や入江雅人なども一緒になって劇団SHA・LA・LAを結成するのは、学校を卒業してからのことである。

内海好江師匠から「漫才をやる気があるなら面倒を見る」

 出川によれば、人見知りで、たまに飲み会に参加しても端の席で『週刊少年ジャンプ』を読んでいるようなタイプだったという内村に対し(※3)、南原は同級生のなかでも目立つ存在であった。そんな2人がコンビを組むのだから面白い。

 香川出身の南原はもともとお笑いが好きで、高校時代には落語研究会に入っていた。しかし芸人を目指して大阪に行った先輩たちがみんな挫折して帰って来るので、芸人の世界は自分になんか行けるところではないと思い知る。そこでほかに人前に出る仕事はないかと思い、気軽な気持ちで専門学校に入ったという(※4)。

 内村とのコンビ結成のきっかけは、2年生のときの漫才の授業だった。それまでさほど仲が良かったわけではないが、あぶれた者同士、その場かぎりのつもりでコンビを組んだ。コンビの名前は「おあずけブラザーズ」。内村が台本を書き、いざ発表会で披露したところ、南原がアドリブを連発し、おおいにウケた。特別講師だった漫才師の内海好江からは、「卒業しても漫才をやる気があるんだったら、私たちの事務所(マセキ芸能社)で面倒を見る」と言われる。

『お笑いスター誕生!!』のオーデションに合格

 卒業前の進路指導でも、演出家の先生(河本瑞貴)から「おまえらは芝居の世界に行ったら絶対に失敗する。漫才で行け」と言われた。その先生と内海好江からは、若手芸人の登竜門的番組であった『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ)のオーディションも勧められる。そこで受けてみたところ、1ヵ月後に出演が決まった。1985年のことだ。このときウッチャンナンチャンと初めて名乗った。

 初挑戦の『お笑いスタ誕』では準優勝し、それをきっかけに当時人気のあった『オールナイトフジ』や『夕やけニャンニャン』(いずれもフジテレビ)といった番組でレギュラーを得る。だが、順風満帆とはいかない。ネタはできたが、番組で臨機応変に振る舞うことができなかったのだ。

 そのうちにレギュラー番組がなくなっていき、『お笑いスタ誕』だけが残った。2度目の挑戦では4位だったので、とにかく優勝しようと決めた。できなかったら、自分たちはこの世界に向いていないということだから、そこに賭けてみようと本気を出し、番組終了間際の1986年、ついに優勝をつかむ。

 これと並行して、前出の劇団SHA・LA・LAを出川たちとともに結成し、公演のたびに内村が脚本・演出を担当した。1987年に深夜番組『冗談画報』(フジテレビ)にウッチャンナンチャンが出演すると、劇団も脚光を浴びる。出川も彼らの番組に呼ばれるようになり、しだいに顔が知られていった。

頂点に登り詰めても慢心しなかったウンナン

 ウッチャンナンチャンは1988年に始まったフジテレビ深夜のバラエティ『夢で逢えたら』で、ダウンタウン、清水ミチコ、野沢直子と共演し、ブレイクの足がかりをつかむ。1990年には、やはりフジテレビの『とんねるずのみなさんのおかげです』が半年間休止するにともない、その代役に抜擢された。こうして始まったのが初のゴールデンタイム(木曜夜9時)の冠番組『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』である。これが人気を集めたため、半年後には土曜夜8時台に移り、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』へと発展する。

 こうして振り返ると、ほんの数年で一気に頂点に登り詰めた感がある。ここで慢心してもおかしくないが、彼らはむしろ自分たちの実力よりも世間は早く動いていると感じ、どこか怖くもあったらしい。『やるならやらねば』が決まったときは、南原によれば《これでコケたら芸能界じゃ終わりだと思ってました。でもそれを考え過ぎると動けなくなるから、あまり考えずに、一週一週をしっかりやることに集中》したという(※5)。

 その後、彼らは30代に入っても『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』(日本テレビ)、『ウンナンの気分は上々。』や『ウンナンのホントコ!』(いずれもTBS)など多くの冠番組を持ち、安定した人気を保った。『ウリナリ』では芸能人社交ダンス部、ドーバー海峡横断などのチャレンジ企画が人気を集め、また番組から生まれたユニットであるポケットビスケッツ、ブラックビスケッツのCDはミリオンを連発した。

出川は『充電させてもらえませんか?』で初の冠番組

 一方、出川は、ウッチャンナンチャンがダウンタウンと共演した番組で、罰ゲームとしてジェットコースターに乗せられたのがウケたのを機に、何かにつけてリアクションを求められるようになる。その方向性は、プロレスラーと対戦するなどどんどんエスカレートしていった。これにともない「抱かれたくない男」などといったイメージも定着する。

 しかし、内村が司会を務める『世界の果てまでイッテQ!』(日本テレビ)で、海外に行って現地の人たちと片言の英語で会話するなどの企画に挑むようになったあたりから、風向きが変わり始める。2017年には初の冠番組『出川哲朗の充電させてもらえませんか?』(テレビ東京)がスタート、電動バイクで各地を走りながら地元の人たちと触れ合う様子が好評で、一転して愛されキャラとしてブレイクする。

 ただ、『充電させてもらえませんか?』では、冬場のロケは寒いなかバイクで走り続けるなど、体を張った芸風は変わらない。それにもかかわらず、世間の見方が一変したことに、本人は《人生って、本当に面白いなと思いましたね。昔と今でこれだけイメージが変わった芸能人って、たぶん僕と有吉[弘行]くらいじゃないですか?》と語ってみせた(※1)。

ウンナンの2人が司会をする上で重視しているのは?

 そんな出川はウッチャンナンチャンの2人について、内村がもっぱら情熱をコントに注ぐのに対し、南原はお笑いにかぎらず、すべてのことに一生懸命のめり込む、と評したことがある(※3)。

 たしかに南原は、『ウリナリ』で始めた社交ダンスや狂言などを番組終了後も続け、特番のほか「現代狂言」の公演などといった形で展開している。内村はスタジオコントをもう1回やりたいと、『笑う犬』シリーズ(フジテレビ)を始めた。この流れは、NHKの『LIFE!』へと引き継がれている。金も手間もかかるコント番組が地上波からほぼ消えたなか、唯一それを続ける内村のコントへの愛は、長年一緒に組むスタッフをして「ちょっと常軌を逸している」とまで言わしめる(※6)。

 ウッチャンナンチャンの2人は、それぞれ司会者としても多くのレギュラー番組を持つ。南原が司会を務める平日昼の情報番組『ヒルナンデス!』(日本テレビ)は、この3月で10周年を迎える。

 南原は同番組の開始時のインタビューで、司会や舞台演出での心構えについて、《任せることも大事ですね。「ここは任せた、まずは一回やってみなさい」と相手に預ける。そうすると、相手も必死で考えます。みんなで同じイメージを共有できているかどうか、同じ絵を描けているかどうか確認する。大事な部分を共有したら、アドリブなど、それ以外のところは任せる。その代わり、もし成功すればその人の手柄》と話していた(※7)。

 内村は内村で、《バラエティーの現場は、場の空気を読む人の集合体。タレントは繊細だから、ちょっとした空気の変わり目を察知するのが早いんですよ。バラエティーの司会をするときは、とにかくピリついた場にしないことを心がけています。和んだ空気でないと、笑いも生まれないし。収録中に気になることがあっても、その場では言わない。終わってからまとめて演出の方に伝えるようにしています》と語っている(※8)。

 2人とも司会をする上で、チームプレイを重視していることがうかがえる。思えば、彼らの番組は昔から現在にいたるまで、チームで笑いを取ったり感動をもたらそうとする点で一貫している。昨年の紅白での内村の総合司会も好評だったが、それも、無観客のなかで紅白両組の司会者(二階堂ふみ・大泉洋)と見せた連携プレイによるところが大きいはずだ。そこには、学生時代からの出川たちとの活動で培われた部分も多分にあるような気がする。

『充電させてもらえませんか?』は60歳までやりたい

 出川は2017年のインタビューで、『充電させてもらえませんか?』を60歳までやりたいと語っていた。《おじいちゃんになってもバイク乗ってたらカッコいいと思うんですよ》というのがその理由だ(※9)。

 ウッチャンナンチャンにとっても現状は、若い頃には予想していなかったところがあるようだ。2012年、2人が久々に顔をそろえた対談で、南原が《最近の内村は、エアコンの効いたスタジオで人のVTR見ながら『キュー!』とかいって、半隠居だろ!?》とからかえば、内村は《(笑)。南原こそ、20代のころは、まさか自分が将来、お昼の帯番組やるとは思ってなかったでしょ》と返した(※5)。

 果たして彼らはこれからどんな60歳になるのだろうか。できれば、再び一緒にコントをするところを見たいところである。

※1 『テレビブロス』2017年12月16日号
※2 内村光良・南原清隆『未・知・子 ウッチャンナンチャンの愛と謎の告白手記』(集英社、1990年)
※3 『クイック・ジャパン』Vol.88(太田出版、2010年)
※4 『週刊文春』2000年12月21日号
※5 『ザテレビジョン』2012年10月12日号
※6 『クイック・ジャパン』Vol.125(太田出版、2016年)
※7 『THE21』2011年5月号
※8 『サンデー毎日』2016年10月2日号
※9 『ザテレビジョン』2017年7月21日号

(近藤 正高)

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「昔と今でこれだけイメージが変わる。人生って面白い」 出川哲朗とウッチャンナンチャン 同級生3人の“波乱万丈”38年間